編集者のように考えるとは?~上野郁江「才能に頼らない文章術」感想

「文章術の本は、もう買わない」

と思っていたのに
ついつい購入。

上野郁江(著)
「才能に頼らない文章術」

著者は編集者で
編集過程を感覚から
ノウハウにまとめる研究を
しています。

読んでみると
編集ノウハウが整理されていて
ウハウハになりました。

■文章下手が最初にすること

文章が苦手なあなた!

こんなことを思ったことは
ありませんか?

「文章がうまくなるには、
どうすればいい?」

絶対、うまくなる方法を
教えましょう。

例えば、今まで
文章を書いたことがなかった人が
まずするべきなのは、

「私は文章がうまい」

と、口に出してから
文章を書くことです。

「いやいや、
今日ブログ開設したばかりだし、

まだ文章の書き方の本を
読み終わっていないよ。

最初は下手でも
経験をコツコツ積み上げていって
『やっとうまくなった』
と感じるんでしょ?」

それは「慣れるとうまくなる」
の考え方です。

ですが、その方法では、

現在の自分のまま
慣れようとしているため、
いつまで経っても同じで
下手なままです。

一方、
「私は文章がうまい」から
始める方法は、
認知心理学を応用したものです。

「うまいとは何か?」
なんて、最初は考えなくてもいいです。
「カラ自信を持て」
ということでもありません。

「私は文章のうまい人間です」
と「自分はそういう人間なのだ」
から始める
アファメーション(宣言)
という方法です。

アファメーションをすると
物事の認識を変えることができます。

別人になるということです。

とにかく、
前提を作ってから
はじめれば、

文章のうまい自分に必要な情報。
文章のうまい自分の書く文章。

と、入ってくる情報も
書き出す文章も
「私は文章がうまい」
を基準として、

今の自分ではない
文章のうまい別人の現実から
すべてが編集されていきます。

もちろん興味もないのに
口先だけで言っても
効果はありません。

野球嫌いなのに
「私は野球がうまい」
と言っても
(言わないよりいいとしても)
野球はうまくなれません。

しかし、興味がある場合には
片足をかけている状態です。

そこに別人宣言をすれば
文章がうまい自分を実現できます。

私もまず宣言する方法を使いました。

すると、すぐに
ある程度書けるようになりました。

あなたも
ダマされたと思って
3ヵ月続けてみてください。

3ヵ月後には、
今の自分では想像できない
文章の読み方になっているし、
文章を書いているはず。

アフォメーションは
認識を変える
別人になる方法だからです。

ところが、それからが
今回の本題です。

最初はそれでいいのですが、
しばらくすると弊害が現れます。

自分の文章にうぬぼれるように
なってしまうのです。

■はじめ人間ギャートルズ

現在、
私は文章うぬぼれ時代です。

はじめ人間ギャートルズです。

まず「私は文章がうまい」
と思ってから書いていますし、

それだけでなく

「私は知的でユーモアのある
文章を書く文章家である」

も追加して
アファメーションを唱えてから
文章を書いています。

唱えて書くようになった結果、
よくなったところが多いですが、
悪いところがいつまで経っても
なくなりません。

そこで、
自分への宣言を維持しつつ、

そこから
次のレベルに行くために
どうすればいいのか?

を考えていました。

「読者の視点を持てばいいんだよ」

さすが、いいこと言う。

認識の視点をさらに変える
ということですね。

ですが、書いている時点で
想定読者を思い描き、
書いている人は読んでいるので
読者でもあります。

書き手は書いては、読み、
直しては読みをしますから、

書き手=書き手+読み手

です。

だから、読者の視点といっても
書いているときと変わりません。

よく読者の視点といいますが
すでに読者の視点で
書いているので
アドバイスとしては
見当はずれなのです。

むしろ、その読者は
私の大ファンですから
何を書いても大喝采。

レベルアップのためには
全く役に立ちません。

そこで、書く読むとは、
違う目的を持つ視点を
作り出すことが
必要になります。

それは、編集の目です。

■編集者の目

編集者の目とは、
何なのか?

この著書によると
編集者は広範囲に渡って
管理する仕事だといいます。

読者に読まれる
(つまり読者に売れるもの)
から、導き出される

企画、構成、スケジュール、
ライターへの依頼、
編集、
文章校正、
デザイン、
印刷会社とのやり取り
など

編集者は管理が主体なので
直接の作業はそれぞれに
委託されるとしても、

雑誌、書籍をまとめ上げるのが
仕事です。

この仕事の範囲を見ると
わかるのが、

文章を書いたり(書き手)、
文章を読んだり(読み手)
することは一部分だということです。

編集において文章は一部分と
言われて
「あーそーか」
と気づきがありました。

「私は文章がうまい。
私は知的でユーモアのある
文章を書く文章家である」

というレベルで考えている私と

売れる本を作るため
書き手も読み手も全部
目配りしている編集者。

全然、見えていること、
そして見ようとしていることが
違います。

■文章がうまくなって、
どうしたいのか?

文章の書き方の本を読むと
読者の視点になろうと
書いてありますが、

そんなことをしても
書き手のエゴイズムが
より強まるばかりで、

読者との距離は
ますます広がっていくでしょう。

それを解消するためには
書き手も読み手も
まとめて見渡す視点の高さが
重要なのだと感じました。

そのため文章は
編集やむなしなのです。

著者は
「文章がうまくなって、
どうしたいのか?」
と文章の中で問うています。

私は下世話なところから言えば

●文章がうまくなって、
自己満足したい

●文章がうまくなって
ホメられたい

●文章がうまくなって
楽しませたい

●文章がうまくなって、
金儲けしたい

ぐらいで、個人の範囲に
目標を置いています。

文章は一部分の考えの中から
上に出ていません。

細かいテクニックも
書かれてはいるのですが、
そこはどうでもいいです。

「文章がうまくなって、
どうしたいのか?」

を自分に問いかけるきっかけが
この書籍です。

つまり編集者の視点です。

■編集者の悩ませる文章を書け

では、ブッダのような
編集者を文章の書き手は
目指せばいいのか?

と言われれば、
私は「違う」と言います。

書き手の上に
編集者がいるから
編集者の視点だけで
いいというのではなく、

編集者と書き手の両方を
持つことが重要。

なぜなら、
書き手は偏執的で
なければならないからです。

この作者は新聞記者を
目指していたそうですが、
淡々とした文章です。

とても文章がどこまでも平坦で
体温がありません。

箇条書きにしたメモを見ながら
順々に書いているのだろうと思います。

途中で飽きてしまって
「どうしようかなー」と
迷ったのですが、

たまたま時間があったので
最後まで読んでしまいました。

内容はいいところもあるのに

なぜ、読後感が悪く
「仕方なく読んでしまった」
という感覚になるのだろうか?

と考えていたら、
異常なところがないからだと
わかりました。

「これがいいんだ」

という裏には、
常にこだわりがあり、
それに伴う異常さと
それを伝えたい熱があります。

普通と文章に摩擦したときに出る
匂いが立ち昇らないと
入っていけません。

編集というのは、
その偏執的なデコボコを
ヤスリで削って
滑らかにする作業です。

ですから、
編集者を目標にすると
滑らかなだけになります。

そのため、
文章家の部分ではトゲを出し、
編集者の部分で整える、
両者が必要なのです。

両者を合わせれば

編集者を悩ませる
うぬぼれ文章家が
理想ではないでしょうか?

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