なぜ、ブロガーの文章は一文足りないのか?

プロの文章と
アマの文章の違いとは
何かわかりますか?

それは
プロの文章は一文多い。

たったそれだけで
格段に読みやすくなり
わかりやすくなります。

文章の訓練のため
原稿用紙に
商業出版されている書籍の文章を
私は書き写しています。

それで
「私ならどう書くか?」
「どこを取り入れて書けば
そのレベルに近づくか?」
を研究しています。

それでわかったことは
プロの文章は
話の進行が遅いのです。

もし原稿用紙を渡されて
「何か書け」
と言われたら
どんな気持ちになるでしょうか?

400字詰めの原稿用紙って、
目の前に置くととても広いです。

原稿用紙のマス目のチラチラにやられて
「こんなに書かないといけないの」
とプレッシャーを感じるでしょう。

そしてまず、
「どうやってマス目埋めよう」、

極端に言えば
「早く終わらせたい」
と思うのではないでしょうか?

その結果、
内容が飛び飛びの
息の上がった
駆け足文章になります。

ようは、原稿用紙を前に
ガチガチに緊張して
カツカツになっている。

気持ちの余裕が
全くない状態です。

これって、
ブログでも同じ。

役に立つ記事を書かなくては
なんて言われると、

思いつかないのに
いいこと書かないといけないし、
無駄なことは書けないし、

原稿用紙のマス目のような
縛りがあなたを締め上げます。

ところがプロの作家は違います。

もっとゆったり書いています。

それは、なぜかといえば
書いている目的が違うからです。

依頼のあった文字数を埋めるために
書いているのではなく、

書いている自分も楽しもうとしているし
読者を楽しませようともしているからです。

ですから、原稿用紙に書き写すと
余裕をもって
ゆっくり文章が流れていくのが
わかります。

私の感覚からすれば
私が同じことを書く量の
倍の文章を費やし書いています。

そのプロの余裕とは
文章が連絡ではなく
感情を伴っているからです。

例として向田邦子さんの文章を
引用して紹介しましょう。

(この箇所を引用したのは
書き写ししたばかりだからです。

他にもっと最適なところが
あるかもしれませんが
とりあえずここにしました)

向田邦子(著)書籍「眠る盃」
「Bの二号さん」より引用

(ブログの都合により
勝手に改行しています)

■■■■■■■■■■

「二」という数字が
好きになったのは、
この頃からである。

私の父は苦学力行の人物で、
子供の成績も一番でないと
機嫌が悪かった。

長女の私には特にきびしく、
弟妹たちの手本であれ、
と行儀を口やかましく
言われて大きくなった。

頭の中には
いつも「一」という数字があった。

賞められたさに私も張り切り、
それに応えた時期もあったが、
正直言って、
「一」にうんざりしてにいたのだと思う。

「気をつけ」より「休め」の方が、
AよりBが気楽で人間らしい。

いま一番嫌いな数字は「一」であり、
好きなのは「二」である。

残念ながら、
二号さんと間違われたのは、
あれ一回きりであった。

■■■■■■■■■■

この文章の前フリは
シナリオの徹夜仕事が続き、
うな重の出前ばかり頼んでいたので、
出前に愛人(二号)と間違われた
ところからはじまります。

それから、
エッセイの話のオチである
「二号さんと間違われたのは、
あれ一回きりであった」という、

一と二、
本妻と二号の言葉のシャレで
落とすところです。

下積みに
ラジオ番組のシナリオを
書いていた時期もあり、

落語の話の振り方を
勉強していたのでしょう。

向田さんのエッセイを読むと
「うまいなー」と思います。

そして、
「じゃあ、どうすりゃ
これできるようになるか?」
と読みながら考え込んでしまいます。

というのも、
この文章には向田さんの感情が
乗っているからです。

もし私なら

「私の父は苦学力行の人物で、
子供の成績も一番でないと
機嫌が悪かった。

頭の中には
いつも「一」という数字があった。

正直言って、
「一」にうんざりしてにいたのだと思う。

いま一番嫌いな数字は「一」であり、
好きなのは「二」である。

残念ながら、二号さんと間違われたのは、
あれ一回きりであった。」

このように
オチにつなげたいので
好きな「二」、
嫌いな「一」を何回か説明して、

それで、皮肉にも
その嫌いな「一」になってしまった。

ぐらいしか書けないでしょう。
(これも思いつかないと思います)

しかし、これだと
フワッとした余白部分が
全くありません。

揺れていないのです。

だから、
とても急いでいて
詰まった感じになります。

確かに
わかりやすい文章は
無駄がなく
整っていることです。

ですが、それが読みやすく
読んでいる人に
体感を感じさせるかは
また別問題です。

この場合でいえば、

「長女の私には特にきびしく、
弟妹たちの手本であれ、
と行儀を口やかましく
言われて大きくなった。」

「賞められたさに私も張り切り、
それに応えた時期もあったが、」

の部分が
「わかる、わかる、
そういうこともあったなー」

あるいは、
「うちのお兄ちゃん、
そんなこと言われたなー。

ボーっとしてるけど
それなりに
イヤな思いしてたんだろうなー」

を読み手から感情を引き出すところです。

そもそも、
文章のヘタな人(私も含む)は
要件を書こうとします。

それはそれで悪いことではありませんが、
読み手に回覧板で連絡しても
「ああ、わかった」で終わりです。

文章を読んで体感がありません。

読み手に伝えるとか
入っていくという表現をしますが、

そうではなく、
読み手から引き出すことが
重要です。

もし、コピーライティングであれば、
利用者の声や
開発者の想いなどの部分に
読み手から感情を引き出すことが
出来なくては
感情面を動かすことはできません。

そのためには
余分とも思われる
一文多く書くことが必要です。

言い方を変えれば

要件として文章を書く場合には
関係ないことなので
「これはいらないかな」
と書いていないことなのです。

「一」「二」のシャレを書きたいのに
兄弟の話なんてと思うでしょう?

ですが、向田さんの文章を読めば
感情面の説明のために
兄弟の話を入れることが
必要だとわかります。

ただの数字の「一」「二」に
向田さんは感情的なこだわりを
持っていることを説明することで、

ただの要件ではなく
感情のある「一」「二」にすることが
できるからです。

そして、私たちにも
「同じようなことがあるよな」
と思い出させてくれるのです。

だから、読んでいて
読み手の感情も引き出されます。

理屈ばかりの要件では
感情を引き出されないので
文章に体感が伴わず
読み手は親身になってくれません。

一文多く書くこととは
要件をくわしく説明するためではなく
感情の説明の一文を加えることです。

一言多いと嫌われるといいますが、
それは言うに及ばず
語るに落ちるからです。

「何、言ってるかわからない」

残念ながら、
これこそが一言足りない文章です。

武士に二言はありません。

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